薔薇である以前に
つないだ手をつたって、ロザリオは聖の腕を離れた。
校舎に戻る頃には、二人とも少し息が上がっていた。
志摩子は右の手首にロザリオを巻き直している。巻くという動作に慣れないのか少々ぎこちない。
時計を見ると、授業が始まってから12、3分といったところか。
2、3分の遅れならまだしも、これだけ遅れてしまっては、職員室で先生に遅刻届に判子を押してもらって、入室を許可してもらわなければならない。
それは二人とも分かっていたことで、聖と志摩子は職員室に向かった。
授業中なので職員室は閑散としており、見たところ先生の数も少ない。
「あら?」
扉の近くにいた山村先生が小さな驚きの声を上げた。
「どうしたの?あなた達」
無理もないだろう。担任しているクラスの優等生が白薔薇さまと一緒に職員室に現れたのだ。しかも授業が始まってから15分以上経っている。
聖は口元で微笑して遅刻届の棚から、用紙を2枚抜き取った。
手近にあったボールペンで自分の名前だけを書き込み、もう一枚とボールペンを志摩子に渡す。
遅刻の理由などというものは、始業前なら病気とか交通渋滞、始業後なら怪我などが大半であるため、チェック欄に「ロザリオの授受」なんていう項目はない。
「どうしたの?」
何もチェックされていない理由の欄が先生の興味をかきたてたようだ。
「流石に、このままじゃ判子押す訳にはいかないわね」
山村先生は悪戯っぽく笑った。
しかし、聖はあらいざらい話そうとは思わなかった。今ここそこでロザリオを渡してきました、なんてどんな顔して言えばいいのだろう。
それに、わざわざ報告することでもない。
「そうですか。では、私たちは6時間目から出ることにしますので。行くよ、志摩子」
聖は志摩子の右手を取った。その時。
かちゃり、と音を立ててロザリオが再び緩んだ。銀色が志摩子の袖口から覗いている。
「成程ね。分かったわ。ちょっと待ちなさい」
特別に例外よ、と言いながら山村先生は、2枚の遅刻届にに判を押して2人に渡した。
「佐藤さん、あまり妹を振り回さないようにね」
つないだ手をつたって、ロザリオは志摩子の腕にかかった。
「やっぱり首にかけた方がいい?」
職員室を出てすぐ、聖さまは聞かれた。
「外れすぎるかな、と思って」
「あ、いえ。このままでいいです」
負担を軽くしようとした聖さまの心遣いを無下にする訳にもいかないし、自分にとっても手首の方が心地よかったのも事実だ。
「そう?じゃあ、手首に巻く練習しておくこと。いいね?」
そう言うと、聖さまは3年生の教室の方へ去っていかれた。
通院で遅刻したことはあったけれども、授業に遅れたなんて経験はないから、教室に入るのには少し抵抗があった。
しかも、クラスの数人には拉致されるところを見られていたかも知れない。
しかし、教室に入ってみると案外すんなりいくもので、遅刻届を出すと老教師は何も言わずに席に着くように促しただけだった。
席に着く志摩子を好奇の目で眺めてはいたけれど、周りの生徒も敢えて声をかけようとはしない。
筆箱と教科書とノートを出し、机の上に広げる。
シャーペンを手にとって板書を写そうとした瞬間。
右手に微かな重みを感じた。
ロザリオの重み。
このロザリオは、いつの白薔薇さまから繋がってきたのだろう。
誰かが自分の妹には新しいのを買ったかも知れないし、もしかするとリリアンの姉妹制度が始まったときから伝わっているかも知れない。
しかし、ロザリオが変わろうが変わるまいが、今、自分の腕には今までの白薔薇の歴史が掛かっているのは事実。
ロザリオの掛かった右の腕を眺めながら、志摩子はぼんやりとそんなことを考えていた。
右腕が軽い。
ペンを握って文字を書くとか、そういったちょっとした動作をしてもそう感じる。
別に今まで鉄の輪っかをはめていた訳ではないけれど、今までかかっていた重みが無くなるというのは何となく違和感がある。
リリアンに、聖がお姉さまと呼べる人が存在しなくなってから、ロザリオは聖にとってただの飾りだった。
首に掛けたところで、マリア様が守ってくれる訳でもないし、お姉さまについてどうこうなる問題でもない。
そうすると、飾りとして手首に巻いておく、ぐらいの感覚が丁度良かった。
そして、そのロザリオは今、志摩子の腕に巻かれている。
ロザリオが聖と志摩子を繋ぐものになっている、などという陳腐な考えはそこまで持ち合わせてはいなかったが、今までただの飾りでしかなかったロザリオは、確かに今意味を持っているのかも知れない。
例え、それが形の上であっても。
意味を持たなかったロザリオには今、ほんの少しの意味が加わったのかも知れない。
ロザリオのない右の腕を眺めながら、聖はぼんやりそんなことを考えていた。
右腕が重い。
ペンを持つ手も鈍りがち。
志摩子は、窓の外をぼんやりと眺めながら、今の自分の立場を反芻してみた。
白薔薇さまの妹となったということは、それは取りも直さず自分が白薔薇のつぼみであるということだ。
白薔薇の家系図の中に、藤堂志摩子という名前が刻まれたことで、自分が来年度の白薔薇さまになることに何の不思議もない。
いや、寧ろ、そちらの方が自然かもしれない。
しかし、自分は生徒を引っ張れるだけの人間なのだろうか。
確かに、佐藤聖さまという人は志摩子の抱えている事情に興味を持たないだろうし、全く気に留めないだろう。
けれども、自分が白薔薇さまになったとき、自分はリリアンの純粋な生徒達を欺くことになるのではないだろうか。
まだ、自分が白薔薇さまになった訳ではないので、そんなことを考えるのはおこがましいのだろうけれども。
机の下で、何回かロザリオを巻き直してみたけれども、上手くいかない。
6時間目は、あっという間に過ぎていった。
噂が伝わるのは早い。
「白薔薇さまが、志摩子さんを連れてどこかに行かれてたそうよ」
「5時間目の直前にどこかに走って行かれるのを見たって」
噂好きの1年生達は、聖の顔を見ると、少々戸惑いと驚きの混じった顔で「ごきげんよう、白薔薇さま」と会釈して掃除に戻った。
まだ、噂に憶測という尾ひれが付くことはなかったが、それも時間の問題だろう。
まあ、付くであろう尾ひれはきっと、正しいものであるのだけれども。
志摩子を妹にした。
ただそれだけのことであるが、きっとそれは、少なくとも1日ないしは2日、若しくはそれ以上の間、学校中の話題を独占するだろう。
白薔薇さまが、藤堂志摩子を妹にした。
この、主語に問題があるのかも知れない。
志摩子は、この「白薔薇さま」という主語をどのように受け取るだろうか。
聖はビスケットの形をした扉を開いた。
噂が伝わるのは早い。
6時間目が終わり掃除をする頃にはもう、5時間目の出来事は生徒の口を通して広く伝わることになっていた。
遠慮しているのだろうか、志摩子の前で話す人はいないけれども、自分の噂というのは、否が応でも自分の耳に入ってくるものだ。
「…ということは、志摩子さんが次の白薔薇さまに?」
「ええ。志摩子さんならば、申し分はないですわね」
誰もロザリオの授受については見ていないだろうに、もう噂が憶測という尾ひれをつけて泳ぎ始めている。
妹になった。
ただそれだけのことであるが、噂好きの同級生達のことを思い浮かべると、それが少なくとも1日ないしは2日、若しくはそれ以上の間、学校中の話題を独占するであろうことは、容易に想像出来た。
白薔薇さまの、妹になった。
この、所有格に問題があるのかも知れない。
自分は、この「白薔薇さまの」という所有格をどのように受け取ればいいのだろうか。
志摩子は、ビスケットの形をした扉を開いた。
部屋にはお姉さまだけがいた。
椅子に座り、飲み終わったコーヒーを机の上に置いて、志摩子の方を見ている。
「あら?志摩子。ということは、また紅薔薇さまあたりの差し金かな」
他の薔薇さま方も、つぼみの方もまだ来られていない。以前にもそのようなことがあったが、今日も噂を聞きつけた紅薔薇さまが他のメンバーをストップさせたのかも知れない。
「はあ…」
志摩子は曖昧に頷いて、聖さまの前にあったカップを取った。
「お姉さま、お代わりは…」
お姉さま。
まだそう呼ぶのは恥ずかしいし照れくさい、そんな呼称。
すると、聖さまは一瞬きょとんとして、それから言った。
「あ、そっか。私もお姉さまと呼ばれるようになったのか」
まるで他人事みたいな、そんな口ぶり。
「つい、3時間前までは白薔薇さまだったのにね」
白薔薇さま。
不毛な悩みではあったけれども、自分の心中の小さな染みを見つけられたようで、志摩子は一瞬ドキリとした。
その一瞬を聖さまは見逃さなかった。
「あ、やっぱり志摩子はその辺悩んでるんだ」
聖さまは椅子から立ち上がって、志摩子の両肩に手を置いて言った。
「いい?志摩子。私は一切束縛しない。そう言ったでしょ」
「ですけど…」
「私は志摩子に次の白薔薇さまになって欲しいなんて思わない。それは志摩子が決めることだから」
自分で決める。それは他人に決められた線路の上を走るのよりも難しいことかも知れない。
「それにね。あなたの姉は誰?」
「えっ?」
「あなたの姉は白薔薇さまなのか、それとも佐藤聖なのか、ということよ」
それは同一の人物で、と言いかけて止めた。聖さまはそんなつもりで言った訳ではないのだ。
「あなたの姉は、白薔薇さまである以前に、佐藤聖なんだから」
そうだったのだ。
佐藤聖さまは白薔薇さまであるけど。
佐藤聖さまの妹であるということは、間違いなく白薔薇さまの妹であるということだけれど。
今、自分の前に立っている人は白薔薇さまである以前に、佐藤聖さまなのだ。
だから、残された半年は、白薔薇さまの妹である以前に佐藤聖さまの妹として過ごそう、と思った。
その称号を継ぐかどうかは、それから考えればいいのだ。
「じゃあ」
肩の手を下ろして、聖さまは言った。
「もう一回だけ、佐藤聖流のロザリオの巻き方を伝授してあげるとしよう」
見逃さないように、といいながら、聖さまは志摩子の手首からロザリオを外し、幾重かの輪のようにしてから器用に巻き付けた。
「どう?」
「お上手です」
次からは、外れないようロザリオを巻ける。
志摩子はそう思った。
〜あとがき〜
ごきげんよう、お久しぶりなSSです。
捧げものを除くと、実に半年ぶりに、テーマから考えて書くSSでして。リハビリ作品で御座います。
お目汚し、申し訳ありませんです(平伏)。
さて、今回は聖志第2弾ということで。まず。
おーのーれーーー!
ってことで、おのれ佐藤聖!でございます。
これを書くために、片手だけつないで等々読み直した訳ですけど。
おーのーれーーー!(もうええ)
ん〜。憎い。この2人の距離感とか関わりとかが憎い、憎い。ラヴ。
あ、当然祥祐もラブですけど、聖志も書いてて面白いなーと、思いました。
それは書き終わったから言えることで、書いてるときは結構距離の取り方とか悩んだりするんですけどね!
以上、長々と後書きでした