咲き初めた薔薇、ふくらみ始めたつぼみ
お姉さまたちが来なくなってしまった薔薇の館は、なんとなくもの悲しい感じがする。けれども、今日も薔薇の館では、つぼみ及びその妹たち5人が忙しく働いている。
お姉さまたち三年生を送り出すために。
「これが終わったら、すぐに学年末テストなのね」
誰とも無しに、呟きが漏れる。
「三年生は学年末テストがなくていいですね」
しばしの沈黙。
「馬鹿ね、祐巳。三年生は大学受験があったでしょ」
また、しばしの沈黙。
最初の沈黙は、祐巳の突飛な発言に誰も対応できなかったから。
二度目の沈黙は、薔薇さまたちがこの学校を去っていくってのが、大学受験を通して見えているから。
卒業。それが永遠の別れを意味している訳ではないけれど、今まで普通に会っていたお姉さま−水野蓉子さま−と会う日が少なくなってしまった最近、その寂しさは身をもって実感している。リリアンでお姉さまと顔を会わせる日は、もう殆ど残されていなかった。
「卒業…ですか」
呟きがまた、誰ともなしに。
今まで意識的に伏せてきた言葉だからこそ、その言葉が明るみに出たとき、周りに与える影響は大きい。
しんみりとした、そして重苦しい空気が部屋を包む。
「あ、でも。こうやって毎日、薔薇さまたちのお別れ会の準備ばっかりしてるから。こんな調子じゃ、卒業式は本番の方が、実感がわかなかったりして」
…薔薇さまたちのお別れ会…?
大変なことを忘れていた。
「祐巳さーん。合唱部の発表のことなんだけど」
つぼみだけでは手一杯なので、その妹に任せている仕事もある。だから時には、祐巳を訪ねて薔薇の館にやってくる人もいる。
「あっ、そのことでしたら」
応対している祐巳の後ろ姿をみて、私は少し誇らしく、それから嬉しく思った。
こんなに優しい妹が私を支えてくれる。
私たちのミスだったお姉さまたちのお別れ会も、祐巳が連絡役を引き受けてくれたりして、なんとか実行できそう。
最初は薔薇さまになることに一抹の不安を感じていたけど、後ろから祐巳が支えてくれている、と感じたら、不安もかなり軽減されてきた。
祐巳がいれば上手くやっていける。そんな気がした。
「…お姉さま?」
祐巳が心配そうに私の顔をのぞき込んでいる。
「何かしら?」
「あ、いいえ。お姉さまがボーっとされていたので、お疲れなのかな、と思って」
「あら、そんなこと無いわよ。ところで、合唱部の方はお帰りになったの?」
「ええ」
「そう、祐巳たちがいてくれるお陰で、本当に助かるわ」
三年生のお別れ会が翌日に迫った金曜日。
手で食べるという行為自体あまり好きではないのだけれど、手早く食べられるという利点では、サンドウィッチを昼ご飯に選んだのは正解だった思う。
何よりも今は、一分一秒が大事。
そんなことをぼんやり考えながら、今日会場に運び込む飾りなどを書いた書類に目を通したとき。
「祥子さま」
平静を装っているが、何となく焦っているのが分かる。机に脚をぶつけて、ちょっと顔をしかめながら、志摩子はやってきた。
「祐巳さんが…」
志摩子の顔を見て、私の頭を嫌な予感がよぎった。
「祐巳さんが…、授業中に倒れてしまって…」
…祐巳が、授業中に…、倒れた?
志摩子の顔を見たとき、何か嫌なことがある、というのは予測できたけど。
しばらく、言葉が出なかった。
「祥子さん、お話中申し訳ないのだけれど…。会場の飾り付けの…」
会場係のクラスメイトが話しかけてくる。
そうだった。今から会場の飾り付けの打ち合わせがあるんだった。私が何か言おうとしたその瞬間。
「あ、そのことでしたら私が」
志摩子が私の言葉を遮った。
「いいわ。飾りは私が…」
「祥子さまは、祐巳さんのところに行ってあげて下さい。保健室にいますから。大丈夫です、飾りは私が何とかしておきますから」
「ありがとう、志摩子。じゃあ、あとは頼んだわね」
今だけは、志摩子の気持ちに甘えることにした。
「先生、祐巳は」
保健の保科先生は他の生徒の手当をしているらしく、声だけが返ってきた。
「右から二番目のベッドよ」
歩み寄って、そっとカーテンを開ける。
「祐巳…」
いつも元気のいい祐巳の顔からは考えられないぐらい、祐巳の顔は青かった。
「過労と寝不足ね。一体この時期に何をやってたのかしら」
手当を終えたらしく、後ろから先生の声が聞こえた。
「小笠原さん、私ちょっと外すけど、福沢さんに何かあったら呼んでね」
そういうと、保科先生は保健室を出て行った。
「祐巳…」
もう一度呼んでみても返答はない。
おでこの上の髪を払って、そっと自分のおでこを重ねる。
(よかった…、熱はないみたいね)
そっとおでこを離して、今度は手を祐巳のおでこの上に重ねる。
「ん…。お、お姉さま…?」
うっすらと、祐巳の目が開かれる。
「何?祐巳?」
返答はなかった。祐巳はまた眠ってしまったらしい。
「ばかね…。張り切りすぎるからよ」
つぶやいてみたけど、祐巳が倒れてしまったのは、私の責任。
いくら祐巳が頼りになるからといっても、祐巳はまだ一年生。
紅薔薇のつぼみにもならない、まだまだ固い冬芽。
そんな祐巳に、多大に寄りかかってしまって。
金属だって、繰り返し圧力がかかれば折れてしまう。
だから、祐巳が途中で折れてしまうのは至極当然のこと。
「そんなことに気付かなくって、何がお姉さまよ…」
祐巳の髪を撫でる。ツインテールも今日は元気がない。
でも、そんな祐巳にしてしまったのは私だから。
今、時間が許す限り、祐巳を見つめてあげるのが、私に出来る唯一のこと。
祐巳を見つめて、髪を撫でて。
15分ぐらいたっただろうか。
予鈴が保健室にも聞こえた。
「ゆっくり休みなさい」
私は少し後ろ髪を引かれながら、保健室をあとにした。
不本意だけれど、お姉さまが学校に来てない今日は、この人を頼るしかない。
「あれー?祥子が私に頼み事とは珍しい。しかも祐巳ちゃんのこととはね」
「いけませんか。私が白薔薇さまに頼み事をしては」
「いや、いけないってわけじゃないんだけど。何となく、どういう風の吹き回しかな〜、と思って」
「とにかく。祐巳のこと、お願いしましたから」
「連れて帰る途中で、抱きついちゃっても知らないからね」
「…人の妹には、手出し無用に願います」
そう言うと、私は白薔薇さまに背を向けた。まったく、この人は。
「祥子も、お姉さまらしくなったね〜」
その言葉は、さっき私が考えたこととは全く矛盾していた。
会場の準備が無事終了したことには、志摩子に感謝しなければならない。
薔薇の花が準備できたのは、令と由乃ちゃんのお陰。
「みんなで祐巳ちゃんの分もやろう。祥子が一人でやる事じゃないよ」
私一人で背負い込もうとしていた祐巳の仕事は、令の一言でみんなに分担された。
私が祐巳に寄りかかりすぎたことで、他の全員に迷惑をかけてしまった。
「大丈夫。こういうときの為に、友達っているもんでしょ?」
何気ない令の言葉だったのだろうけど、私の心まで染みこんだ。
「祐巳ちゃん?ああ、結構元気そうだったから安心したよ」
白薔薇さまの言葉を頼りに、私は今、電話の子機を握っている。
そのとき。
(とぅるるるるるるる…、とぅるるるるるる…)
手元の電話が鳴っていることに気付いた時には、電話は鳴り始めてから少し経っていた。
『もしもし』
「祐巳?」
祐巳は少し驚いたようだったが、大丈夫だということを私に告げた。
「私、反省したのよ。あなたにそんなに負担かけていたのかしら、って」
それが、今私が伝えたい一番の気持ち。
『いいえ』
祐巳はしっかりと否定してくれた。そのはっきりした声に、私は少しだけ安心した。
『明日は、行きます、絶対』
「そうね…。そうなさい」
無理はして欲しくないけれど、私が一番欲してるのは、祐巳の笑顔だった。
「さすがに、早く来すぎたかしら」
誰もいない薔薇の館は、なんとなくもの寂しかった。
ビスケット扉を閉めると、窓を全開にしてみた。
春は近づいていたけれど、まだまだ寒い。
振り返ると、壁に掛けてある黒板が目に入った。今日の仕事の分担が書いてある。
パネル:志摩子・祐巳 薔薇:祥子 花器:令・由乃
「これは、ちょっと問題あるわね」
独り言を言いながら、私は黒板の担当表の「祐巳」と「祥子」を書き換えた。
会は無事終了した。
お姉さまに、よく頑張ったわね、と褒めてもらえたのは、殊の外嬉しかった。
祐巳も最初は心配だったけど、徐々にペースを取り戻したようだった。
「祐巳、つらくない?」
「大丈夫ですよ。まだ、薔薇さまたちのお別れ会も残ってますから、頑張らないと」
「あんまり無茶しないのよ。昨日のことがあるのだし」
「はい!でも、本当にもう大丈夫ですから!」
強がっているのか、本当なのか。よく分からなかった。
けど、このことだけは、伝えておかなければならない。
「祐巳」
「はい」
「あなたも、もうすぐ紅薔薇のつぼみになるのね」
「お姉さま?」
祐巳が心配そうな顔でこちらを見る。
「お姉さまたちが卒業なさったら、私も紅薔薇さまになるわ。そうすれば、必ずあなたの助けが必要になると思うの。その時には、よろしく頼むわね」
「はいっ」
「でも、自分で出来ることは、自分でこなすわ。あなたは確かに頼りになる妹だわ。でも、あなたばかりに頼っていては、あなたも体が持たないでしょう。今度のことで、それがよく分かったわ。だから、私があなたの方にもたれすぎたら、私がまっすぐ立てるように支え直して欲しいの」
「分かりました。でもお姉さま。自分で無理して全部背負い込まないで下さいね。私だって、お姉さまの支えになりたいんですから。お姉さまがもたれてくれなかったら、支えだって寂しいですから」
「分かったわ」
ふふふ。2人分の笑いが漏れる。急に気持ちが軽くなった。
「さあ、次はお姉さま方のお別れ会よ!」
「祐巳に何か吹き込んだでしょう。隠し芸とかなんとか」
目の前では、恐るべき光景が繰り広げられている。
白薔薇さまの一言で、由乃ちゃんがマジックを始め、志摩子は日舞を始めた。
「あ、ばれた?」
白薔薇さまは頭を掻いて、でも楽しそうに志摩子の日舞を眺めた。
「祐巳ちゃんは、絶対、一番面白いことをやってくれるよ」
「何故ですの?」
「だって、倒れるほどに根詰めて練習してたんでしょ?」
「白薔薇さま…」
苦笑いしながらそんなことを言っていると、志摩子の日舞も終わってしまった。
次は祐巳の番。
(この衣装…)
祐巳の格好を見た瞬間、私の脳裏に予感が走った。
「安来〜♪」
私の予感は当たってしまった。
「アラエッサッサ〜♪」
祐巳の元気な声が部屋中に響く。
祐巳はもう、いつも通りの祐巳だった。
祐巳と出会ってからまだ数ヶ月しか経っていないけれど、もう私たちは立派な姉妹だった。そして、祐巳は立派なつぼみとなった。
祐巳が支えてくれるのなら。きっと、私たちは上手くやっていける。
その思いは、先日までの勝手な空想ではなくて、確実なものとして私のもとにやってきた。
〜あとがき〜
前作は完全脳内妄想作品で、物議を醸しましたが(笑)。
今作は純粋に本編に沿って書いてます。
時期は“いとしき歳月(前編)”の“いと忙し日日”です。
ここの祥子さまもかなり好きなので、書いてみようかなーと思いまして。
でも…う〜ん…。
祥子さまの心情、上手く書けてるのかなぁ…。そこが不安。
書いてる当人は、完全に空想つくり上げて書いてるんですが、言葉足らずで(汗)。